静かに壊れていく秒針たちが

詩メインで、あとは徒然に音楽のことなど

笑いながら恋は雨に流されて消えた

椿屋四重奏が十二分に評価されきらなかったことは、安全地帯やCHAGE and ASKAという名前をJ-POPやニューミュージックに押しやってしまったこの国の音楽状況とリンクして、なんだかやるせない。

 

中田裕二というシンガーが持っている歌謡曲テイストと和を感じさせる艶ロックって成分は、おそらくはTHE YELLOW MONKEYの吉井和哉が持っているそれと似通っているのだと思う。

 

では、何が違って彼らはロックンロールの呪縛を背負わされたイエモンと違う感じの扱いになったのか。そして、この国に於ける歌謡曲の歴史とロックンロールの分岐点は何処だったのかということを考えている。内田裕也なのか、それともはっぴいえんどなのかとか、そういうことではなくて、単純にこの国の侵略された歴史からの音楽か、あるいはJAZZから伝わった黒人音楽に眠る異端としての存在への闘争か。

 

 

この国にはロックンロールはないけれど、ロックシンガーは星の数と歌ったミュージシャンがいた。ろくでなしでなければ、ロックンロールは体現できないのか。多分、そんなことはないのだと思う。そういうレッテル、型にはめた考え方があるからこそ、椿屋四重奏は十二分に受け入れられる前に解散してしまったのではなかろうか。

 

そんなことを考える台風一過の暗鬱。